戦争映画年表

第二次世界大戦

第二次世界大戦は、1939年から1945年にかけて発生した枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソ連など)との間の戦争。

ドイツがポーランドを侵攻したことが発端となり、イギリスとフランスがドイツに戦線したことによって西部戦線がはじまる。ドイツ軍はこの戦線でフランス侵攻に成功、その後イギリス上陸には失敗したことでソ連攻略へと転換して東部戦線が開く。日独伊三国同盟を結んだ日本はイギリス、ハワイを攻撃する。このことでアメリカも宣戦布告することとなり、戦争は世界大戦へと発展していく。

枢軸国側も当初は勢いがあったがやがて陰りを見せ、各地で敗戦が目立つようになる。1944年ごろからは連合国が優勢となり西ヨーロッパの解放が進む。翌年5月にはヨーロッパにおける戦争は終結する。日本ではアメリカ軍との攻防が続いていたが、2度に渡る原子爆弾の投下、ソ連の宣戦布告などを経てポツダム宣言の受諾、終戦となる。

ヨーロッパ戦線

1939 ~ エニグマ

ドイツ軍はソ連と秘密裏にポーランドを分割することを計画していた。宣戦布告もないままポーランドを侵攻するドイツ軍に対して、ポーランドと協定を結んでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦布告することになる。

イギリスがドイツに宣戦布告した頃、ドイツ軍の暗号機エニグマを使って通信していた。この暗号の解読に苦戦していたイギリスは数学者アラン・チューリングらにその解読を要請した。

映画『イミテーション・ゲーム』では、アラン・チューリングという人物の生涯を中心に当時の様子を描く。

エニグマを含む暗号についてはサイモン・シン著『暗号解読』がおすすめ。

1939 ~ ホロコースト

ナチスドイツによるユダヤ人迫害の中、多くのユダヤ人の命を救ったオスカー・シンドラーを描く。

1940/05/26 ~ 1940/06/04 ダンケルクの戦い

優勢だったドイツ軍は順調にフランス侵攻を進めていた。やがて英仏連合軍はフランスのダンケルク海岸(ベルギー寄りの北側の海岸)でドイツ軍に包囲されてしまう。チャーチル首相は包囲された軍を撤退させる ダイナモ作戦 を発動した。

『ダンケルク』ではクリストファー・ノーラン監督がダイナモ作戦の様子を陸海空の視点から同時進行で描いた。

1942/06 ~ 1943/02 スターリングラード攻防戦

ドイツはソ連との不可侵条約を破棄してソ連に侵攻していた、。その中でソ連の油田を狙うブラウ作戦を計画される。その目標のひとつとして大都市スターリングラードの攻略があった。最終目的ではなかったが、戦略上の要であったことからもスターリングラードの市街戦は動員兵力、犠牲者、経済損失ともに最大規模の戦いになった。

侵攻するドイツ軍は優位ではあったが、ソ連赤軍の反攻によってドイツ軍は降伏を強いられることとなる。これによって第二次世界大戦全体の局面が大きく動くことになった。

『スターリングラード』では、この攻防戦を題材に赤軍の狙撃手ヴァシリと政治将校ダニロフ、ドイツ軍のケーニッヒ少佐を中心とした狙撃手同士の戦いを描いている。

1944/06/06 ノルマンディー上陸作戦

連合国側はドイツの劣勢に乗じてドイツ軍に制圧されていたヨーロッパを解放する動きに出る。ドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディー海岸(フランスの北部中央あたりの海岸)に上陸、ドイツ占領下の北西ヨーロッパを侵攻する作戦で、正式名称を ネプチューン作戦という。この作戦全体では複数の海岸から上陸を行ったが、ノルマンディー上陸作戦は大きな損害を生んだ。

映画『プライベート・ライアン』では、兄弟すべてが戦死してしまったライアン二等兵を救出し、母の元へ届けるというストーリーを軸に上陸作戦の様子を描く。

1945/04

終戦間際のドイツを舞台にした戦車舞台の様子を、歴戦のウォーダディーと新米のノーマンを中心に描く。戦車を見るならこの映画。

太平洋戦線

1941~1945 太平洋戦争

戦争終盤の硫黄島での戦いを描いた『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』。2作は姉妹作であり、前者は日本軍の視点から、後者は米軍側からの視点から硫黄島戦を描く。いずれもクリント・イーストウッドが監督を務める。

ベトナム戦争

1968/01/30-1968/02/12:テト攻勢、フエ事件

1971 ~ タイガーランド

ベトナム戦争が泥沼化した頃、ルイジアナ州の基地。小説家志望の志願兵の視点で、反戦平和の意志を曲げない訓練兵ボズの様子を描いた作品。

アフガニスタン紛争

2008-2010: ハイエナ・ロード

ルート・フォスターとしても知られる復興道路建設時の話。アフガニスタンのカンダハールに復興道路を建設するために尽力するカナダ軍が描かれる。

2009:カムデシュの戦い

キーティング前哨基地で起きたカムデシュの戦い。補給線と地元民との関係構築のため、パキスタンとアフガニスタンの間に基地を構えた米軍。地理的に圧倒的に不利な場所に構えられた基地に、300人以上のタリバン部隊が攻め込んだ戦いの様子が描かれる

元々はカムデシュの地域復興チームとして構成されたチームだったが、戦闘が激化し、基地として残ることになった。事故で亡くなった大尉の名にちなんでキーティング前哨基地と呼ばれるようになった。カムデシュでの戦闘はアフガン紛争の中でも最も過酷な戦闘のひとつとされている。

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